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「目指す」という言葉があって、たいていは希望的な、前向きな、積極的な、良い意味で使われている。「〜を目指して頑張ります」というもの。目指す対象は、つまり目標というか、到達点の1つとなる。それはそれでけっこうなことだが、僕の見た範囲で感じることは、目指していると大したものにはならない、というやや悲観的な結果である。目指すというのは、結局のところ「良くてそこまで」という限界を最初から決めているような行為だからかもしれない。
 「目標を高く」なんていうのも、よく耳にするが、「到達できなくても良いから」という甘えが最初からある。それは逆であって、目標はできるだけ低く見積もるべきだ。そして、そのハードルを日々確実にクリアして前進する、という方が良いのではないか。
 ずっと以前から何度も書いている持論だが、「第2世代は、第1世代を超えられない」という法則がある。これは、たとえば、ゲームで育った世代がゲームを作る立場になっても、最初のゲームを超えるものは作れない、というような意味である。第1世代には、「目指すものがなかった」ということが、かけがえのないアドバンテージになるからである。
 こういった法則を信じている森博嗣なので、中高生から「僕は将来小説家になりたいのですが、今しておくべきことは何でしょうか?」という質問に対しては、「小説を書くことです。そして、人の小説を読まないことです」と答えることにしている。

・やった!やっぱりそうだったんだ!!「弟子は師匠を超えられない。だから誰かの下に入った瞬間にその分野ではその人を超えることはできない」と常々思っている(スケールダウンの原則と呼んでいる)。自分にとってはコレは大きい!!加えてその理由まで明確に語られてる。芸術家から芸人から職人から建築家まで全て師匠と同じジャンルで師匠本人よりも秀でた人物を歴史上知らない。(いや、いるかもしれないし、自分が知らないだけかもしれないけど)。逆に弟子が師匠と違うジャンルで大物に成長するというのはよくある話だ。その理由を自分はこう思っていた。「弟子は師匠に比べ、自分のオリジナルを産みながら成長する機会が圧倒的に減るからだ」と。弟子は師匠の切り開いた道を歩くことになる。森博嗣さんの言葉を借りれば、師匠にはもともと目指すべきものが無かった。低く見積もったそのハードルを日々確実にクリアして前進することを考えていた。しかし、弟子には明らかに目指すもの=正解がある。それが師匠だ。師匠のやることをまねぶ(学ぶ)ことを考える。確かにある時点までは効率が良いかもしれない。しかし、師匠の後ろにいる限り師匠を超えることは不可能だ。確かに集中して学ぶことができ、かつ、師匠という保険が利いているから安心して没頭できる。これは気持ちがいい。かたや自ら自分を作り上げようとする人は常に不安だ。不安の中でそれでもそこから楽しみを見つけ出していかねばならない。そうじゃなければ続かない。
 一度は入った師匠から放り出された自分だからこそこう考えるのだろうけど(人は必ずポジショントークをする)。当時はなんて不条理なんだといじけて自暴自棄になっていたが、最近はそれを感謝している。なぜならあのまま師匠の下にいたとしたら自分の先は知れているからだ。自分はチャンスを与えられていると最近は思う。自分は自分を精一杯成長させてやりたい。