森博嗣ブログより
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センスとテクニック
 絵が上手いという場合、それは、頭に思い描いたものが優れていて、しかもそれをキャンバスに写すだけの技巧を持っていた、という2つの要素からなっている。
 たとえば、もの凄くカラーコーディネートのセンスが良くても、その色を上手く塗れない人は、仕事としてやっていけない。それがこれまでの世の中だった。
 基本的な技術は、大半は経験によって築かれる知識体系であって、それを知っている者が、その職に就いている。しかし、センスがあるか、というと、どうもそうではない、と思うことが非常に多い。
 たとえば、デザイナと呼ばれる(あるいは名乗っている)人たちは、単に素材を沢山知っているとか、できることを把握しているとか、コストの計算ができるとか、そういった能力を持った人たちで、美しさに対する感覚が優れているわけではない。なかには稀に、この美のセンスを持っている人がいて、そういう人は例外なく、一流であり、名前が知れ渡っている。逆にいえば、それ以外の99.9%の人は、センスがない、ともいえる。
 ところが、その職についていない(だから当然、経験も知識もない)けれど、センスを持っている人間がいる。そういう人から見ると、「これ、変じゃない?」というものがあるわけだが、しかし、「素人に何がわかる」と一蹴されるわけだ。デザインの世界もまだまだ封建的である。
 デジカメが登場して、カメラやレンズの設定や現像の技術がなくても、良い写真が撮れるようになった。これからはセンスだけの勝負になる。それと同じように、あらゆる分野のデザインは、ノウハウがコンピュータ任せになり、どんどんセンスの比率が増していくだろう。本来あるべき方向へ近づいているだけの話であるが。


本当に言い得て妙だ。学生の頃、建築設計事務所というのは建築センスがある(少なくとも素人よりも)人が働く場だと思っていた。もちろん一流どころはそうなんだろうけど、自分の就職した事務所はそうでなかった。つまり、仕事として建築設計事務所に勤めている人達がほとんどだということだ。だから建築への情熱は基本的に求められないし、逆に疎まれる。求められるのは単なる業務への情熱だ。建物を実現できる能力を身に付けるための情熱だ。それは美しい建築をつくるためのものでは決して無かった。だから、今でもそのようなただ単に業務を遂行するためだけの人(設計の担当者)を見ると心底自分と変わって欲しいと思うし、同じくらい強く今はまだ全く社会に認められていないのだなと思う。。。続きはまた書く。