メモ

科学者にとって注意すべきことは、自分の研究環境をベストに持って行くことであって、その地位ではありません。それを理解していないと、近道のようで結局は遠回りをすることになります。

歴といわゆる「頭の良さ」は完全に比例するかというと、そうでもないようですね。むしろ「努力の仕方を知っている」ことに比例するように感じます。

しかし医師免許を持っているということは、その不安を和らげてくれる魔法の薬です。つまり綱渡りの際に、下に安全ネットが張ってあるようなものです。失敗を恐れずにどんどん前へ進むことができるのは、実は背水の陣を引いた人ではなくて、安全ネットの上を進む人達なのです。リスクを取らなければリターンも得られないこのクリエイティブな世界において、リスキーな選択でも平気ですることができる人は、科学者として成功する要素を持っています。

研究はいつもうまくいくとは限りません。というか、うまくいかないことがほとんどです。それでも石にかじりついても根性で困難に立ち向かうべきでしょうか?否、そんなことしていたら精神が持ちませんよ。辛くなって次第に研究が嫌いになり、さらには人生が嫌になってしまうのがオチです。ですからテーマは複数持ちましょう。私は大学院生時代には5〜6テーマを常にやっていましたが、これはちょっと多すぎです。3つくらいがちょうどいいと思います。困難だけれどもうまくいけば大きな仕事になるテーマ(松)、確実に論文になることが狙えるテーマ(梅)、この中間的な性質を持つテーマ(竹)を持つことをお勧めします。どれかがうまくいく筈です。ここで大切なことは、うまくいっていないテーマも問題解決のための努力を怠らないこと。うまくいっている実験だけに没頭して他のテーマをやらないのではなく、部分的にうまくいっている事実をテコにして、うまくいっていない実験にチャレンジする精神的余裕を持つことが大切なのです。

そこで私が研究者として成功するための素晴らしいポリシーを教えてあげましょう(笑)。「研究は全てファーストオーサー(自分)の責任」と考えること、です。私はずっとそのポリシーでやってきました。それによって救われたことも数多くあります。ボスが・・・してくれないから、なんて言い訳になりません。家庭の都合で、なんてのも論外。Natureのeditorがそんな言い訳聞いてくれますか?極端な話、雨が降っても自分の責任、くらいに割り切っているとかえって気が楽なものです。理不尽のようでもあり、体育会系の精神論のようにも聞こえますが、実はこれが人生の成功のための秘訣なのです。

私が一日も早くボスに論文を見て欲しいときに何をしたかをお教えしましょう。まず、ボスに提出するドラフトといえども、内容と体裁を出来る限り完璧なものに仕上げることは当たり前のことです。私のベンチメートだったM博士は非常に有能なサイエンティストで、内容的にも素敵な論文(最終的にはScienceに掲載されました)を書いてボスに出したところ、タイトルだけを一瞥しただけで投げ捨てられました。タイトルの大文字小文字の使用に関して統一性がなかったためでした。ちょっと極端な例かも知れませんが、私はそのときのボスの気持ちを理解できます。誤字脱字や単純な文法のエラーや体裁の不統一性などがあると、いい加減な気持ちで論文を書いているんだなという印象しか持てなくなります。またボスが論文を直してくれた後の対応も大切です。私は徹夜してでも、必ず翌日には改変版をボスのところに持って行きました。改変箇所を付箋や赤下線で示し、自分のコメントも付け加え、出来る限りのことをします。その内容が大切なのは当たり前ですが、同様に大切なのは「どのくらい自分がこの論文に真剣に取り組んでいるか」をボスにアピールすることなのです。

ボスといえども人間です。そしてまず例外なく忙しい。残念ながら、ボスの心の中で君の論文が最重要課題であるとは限らないのです。そこで君ができることは、ボスにポライトにプレッシャーをかけることです。毎日詰問口調でしつこく催促することではありません。もちろん「まだですか」と言わねばならないときは必ずありますが、そのときは相手に気持ちよく受け取ってもらえるよう、最大限の神経を使って行うべきです。社会一般においても、催促を上手にオブラートでくるんで言うことは大切なコミュニケーションスキルです。

ではどうしたらポライトにプレッシャーをかけることができるのでしょう?先ほどの例では、「必ず翌日に」「質の高いものを」持って行くことが、ボスにとってプレッシャーになるのです。つまりこれだけの努力を部下が払っている、自分はこれに応えてあげなくてはならない、仕方ないので他の仕事を後回しにして、この論文を特急で仕上げてやるか、というようにボスに思わせる努力を「君が」するのです。逆にろくに完成されていないドラフトをボスに提出することはボスのやる気をなくさせるだけでなく、ボスの心の中にその仕事を後回しにする口実を与えることにもなります。ボスにやる気を出させるのもファーストオーサーの仕事であり、それが君自身の成功につながっていくのです。このような行動は必ず君とボスの関係を良好にし、ボスからは信頼され、君の将来へと結びつくでしょう。

どんな研究者も人生の100%を研究に投入できる人はいません。しかし、30%の人、50%の人、80%の人とバリエーションがあるのは確かです。「研究というのは、必ずしも努力が結果に結びつかない分野だ」というのは、大局的に見れば間違っています。「大局的」と言ったのは、個々の例を見れば、たまにはあまり努力しなくても成功した人や、凄まじい努力をしているにも関わらず、まったく業績がでない人がいるということです。しかし、例数を増やせば、研究の世界では努力と結果の間に明白な正の相関関係があるのは厳然たる事実です。

科学者には家庭を大切にするタイプと家庭を顧みないタイプがいます。私の知り合いでも、家庭を大切にするタイプの研究者がかなりいます。そのうち8割は科学者として競争的な仕事をするのに不適格です。しかし残りの2割は、家庭を顧みないタイプの研究者と互角に仕事をしています。何が異なるのでしょうか?最大の違いは、ダメグループは「仕事も大切だが、家庭も大切である」という論理を基に自分自身に言い訳を作っています。自分に言い訳ができると、人間弱いもので、低い方へどんどん流されて行きます。

良い方のグループは、自分がハンデを負っていることを十分理解しています。重い荷物を背負ってマラソンをして、さらに何も背負っていない奴に勝たなければならない、という覚悟があります。このタイプは、限られた時間の中でものすごく集中して仕事をこなします。そしてどうしても必要な場合は、ある程度家庭を犠牲にする柔軟性も持ち合わせています。こういうタイプの人は、ある程度時間をやれば着実に結果を出していきます。

しかし、観念論を捨てて経験論から物事を見たとき、私は「研究生活で勝つことが幸せな人生だ」と確信せざるを得ません。家庭を研究より上位に位置づける人は、仕事での評価は低くなり、社会的な地位も低いままで、人間としてのプライドがどんどん矮小化してきて、脹らみのない男(女性の方、ごめんなさい)になってしまうと思うからです。古い考えかも知れませんが、男は仕事が出来てナンボだと思いますし、そういう男でないと女性にもモテませんし、そういう男に惚れる女性でなければ人生を共有するに値する相手ではないです(笑)。

特に研究者として一人前になる前に、「家庭が・・・」という人は、問題があります。家庭が幸せになるためには、まず自分が仕事人としてしっかりした社会基盤を持つことが何よりも重要です。そのためには、ある一定時期、家庭を顧みずに働くことも必要でしょう。逆説的ですが、「家庭を顧みないこと」が結局は将来的に「家庭の幸せ」につながると私は思います。そしてそれを理解できないか、または実践できない人が沈んでいくのだと、そういう例をまのあたりにする度に、感じています。


努力と結果は、大局的に見れば正の相関関係にある。
家庭型サイエンティストの8割は結局人生においても敗者になってしまう。
自分に言い訳を持った時点で、低い方に流されていく。
家庭を大切にしながら科学をすることは人一倍の努力が必要。
全てで成功しようと考えるのは、虫が良すぎる。


「幸運は準備されたところに来る」



今日の勉強

仕事帰りに日建で設備テキスト落とし込み。構造力学宿題。約2時間。

最近は翌日の復習をやっていない。やらねば。

まだ始まったばかり。徐々に最も効率の良いバランスを身につけていきたい。

今は、辛抱強く精神を鍛えて、様々な外部からのプレッシャーに強くなるためのトレーニングだ。