MORILOG

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/index.phpより

たとえば、ある人が海外で生活をしている。とても有意義な生活に見える。その人が書いたものを読んで感動した人が、自分もそんな体験がしたい、と同じ国へ行く。同じ国ではなくても、海外へ行く。海外へ行かないまでも、同じような部屋に住もうとする。それが無理なら、同じ家具が欲しくなる。自分にできることは、そういった具体的なものだから、必然的にそうなりやすい。しかし、そもそもどこに本質があったのか。それは、その人物の感性だ。その感性を持っていれば、どこにいても有意義な生活をしただろう。形に囚われて、形を真似ても、本質を得ることはできない。真似ているうちに、それに気づくことがあれば、まだ儲けものだが。

 あるもので経験豊かになることは、別の言葉でいうと「年寄り」である。年齢ではない。たとえば、本を沢山読んだ人は、「本の年寄り」だ。模型を沢山作れば、「模型の年寄り」になる。
 年寄りになると、自分の経験を語りたくなる。若者にアドバイスをして、苦労や失敗を回避するように促す。しかし、その苦労や失敗にこそ、自分の経験の本質があったのではないだろうか。この原理でいくと、素直に年寄りのアドバイスに従っていると、本質を得る機会からはむしろ遠ざかることになる。

 何が言いたいのか。本質とは、言葉にはできないものである(残念)。ただ少なくとも、他人から伝わってくるものではない。だから、本質を掴みたかったら、外ばかりを探していてはいけない。自分で感じ、考え、悩んで、自分の頭の中から生まれるものを逃さないことである。