http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/08/post_630.php

確実で間違いのない仕事、というのは、一人の人間の気合いや注意力だけで成し遂げられるものではない。合理的な手法がまずあって、それを選択したうえで、ほんの少しの気遣いがあれば充分なのだ。 

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/08/post_621.php
昨日、M浦氏と話していたとき、デビューして10年になるという話題になった。10年なんてまだまだ駈出しだと僕は認識していたけれど、10年経って残っている作家は1%以下だ、と彼女は言う。1冊あるいは数冊出して、やめてしまう人が多い、ということらしい。書くことが好きだ、小説が大好きだ、作家になりたい、と思っている人たちなのに、どうしてだろうか?
 おそらくは、数冊の本を出したところで、その人が思い描いた夢が達成されてしまう、ということだと思う。
 毎日、数通の割合で、「小説家になるつもりです」という人からメールが届く。なかには、ネットで作品を公開している、という人も少なくない(残念ながら、僕は一切そういったものを読みません)。自分の作品を人に読んでもらいたい、という欲求を持つ人は、出版社でデビューしなくても、手近で実現する世の中になってしまった。幸せな状況だとは思う。
 僕はといえば、自分の小説を人に読んでもらいたいと思うことはまずない。そういうふうに強く感じたことは人生に一度もない(絵本では1回あったが)。書き上げたあと、満足できた作品もない。また、書くことが楽しいと感じたこともない。作家になりたいと思ったこともない。正直に書いている。どうしても、ここが理解してもらえないようだ。
 自分としては、格好の悪いことをしているつもりである。少々恥ずかしいことをしているからこそ、お金がもらえる、と理解している。なんとか折り合いのつく位置を模索してはいるけれど、基本的にはその思いがある。
 けれど、読む人にとっては、そんなことはどうだって良い。関係がないことのはず。読んで価値を見出す人がいることは、幸運だと思うし、もちろんそのことは素直に嬉しい。僕も、他人が作ったもので感動することがあるから、多少なりともお返しがしたいという気持ちはある。

 僕はといえば、自分の小説を人に読んでもらいたいと思うことはまずない。そういうふうに強く感じたことは人生に一度もない(絵本では1回あったが)。書き上げたあと、満足できた作品もない。また、書くことが楽しいと感じたこともない。作家になりたいと思ったこともない。正直に書いている。どうしても、ここが理解してもらえないようだ。
 自分としては、格好の悪いことをしているつもりである。少々恥ずかしいことをしているからこそ、お金がもらえる、と理解している。なんとか折り合いのつく位置を模索してはいるけれど、基本的にはその思いがある。
 けれど、読む人にとっては、そんなことはどうだって良い。関係がないことのはず。読んで価値を見出す人がいることは、幸運だと思うし、もちろんそのことは素直に嬉しい。僕も、他人が作ったもので感動することがあるから、多少なりともお返しがしたいという気持ちはある。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/07/post_577.php
たとえば、僕の身近でいうと、建築家。建築物を設計するのが仕事だ。ところが、この頃、建築学科を目指す若者たちは、「リフォームをして、そこの家族を幸せにしてあげたい」というような作文をしてくる。おそらく、TVの影響だとは思うけれど、人から感謝される職業、というイメージが動機の1つになっているみたいだ。
 いずれにしても、これはとても素晴らしいことにはちがいない。社会のために貢献したい、という気持ちは貴重である。ただ、ほんの少し懸念するのは、やはり非常に局所的な、顔が見える範囲、手を握ることができる範囲の「感謝」、ほんの数名の個人的な「感謝」にあまりにも執着していないだろうか、ということ。たとえば、全世界のために、ずっと未来の人類のために、というスケールが失われてはいないか、ということである。