可能性の留保について

僕達は生きている限り、今現在、将来に対する何らかの可能性を持っているわけだけども、その可能性はあくまでも可能性だ。ということをすぐに忘れる。それは若さと置き換えることができると思う。つまり時間だ。可能性は時間のことだと思う。自分が行使できる時間の量に対する自分自身のイメージ。自分の可能性とは、自分の若さであり、自分の持っている残り時間が多いか少ないかというイメージ。たったそれだけだ。ということに気がついた。

可能性=時間。だから、結局は何かをやってみないことには1mmも始まらない。若さに対するほわほわとしたイメージが持つ安堵感は、自分の持つ若さに対するイメージから自分自身が出ざるを得ないときに初めて自分の残り時間の意識する時に危機感に変わり、失った可能性の大きさに絶望する。

僕は生きることや死ぬことについて数年前からようやく考え始めた。だから自分の残り時間について無自覚のまま生きてきてしまった。

その間の膨大な時間は無為に費やされ、僕は多くの可能性をただ失った。

時間は何かに変換しない限りその価値が可視化されない。そういう意味でも、可能性を時間と言い換えることができる。

つまり、動かないと何一つ得られないまま人生が終了してしまうということだ。自分が動けばきっと周りの景色も変わるだろう。

自分の可能性を考えることは、自分の時間を何に使うかをかんがえることなんだ。