地震

能登で被害が出たようです。新潟級の大災害にはならなかったようです。ぼくは地震の報道を見るたびに思うことがあります。それを一度日記に書いておこうと思います。
ぼくの現在の仕事は建築の構造設計です。つまり、地震にきちんと耐える建物を設計することが存在意義なのですが、地震の災害報道を見るたびに無力感に襲われます。というのはどれだけ地震に強い建物を設計する技術があっても、災害現場ではなんの効力も発揮しないからです。建築に携わっている分、被災地に出向いて少しでも何か役立つことができるのでないかと考えますが、おそらく被災地に入っても邪魔になるだけで二次災害の危険性を大きくするだけでしょう。一度、崩れかけてしまった建物はすでにぼくたちが普段扱っている建物の範囲には入っていないのです。なので、ぼくたちが普段行っている工学的な判断が一切通用しないのです。危ないから近寄るな、位しか言うことができないのです。とてもどかしいです。ぼくたちが日々やっていることとの断絶がもの凄いのです。同時に、こうも思います。ぼくたちの「今日の」仕事は何年後か何十年後かに地震が起きた時のためにあるのだと。昨日倒壊した建物や損傷した建物の「そのぶんの仕事」は過去に終わっています。良い仕事=設計がされた建物はあるいは地震に耐えたのかもしれません。現に耐えた建物はその分の仕事が良かったのかもしれません。また、過去の耐震基準は現行のそれよりも低く設定されています。未来から見た、現行の基準も同じように低く設定されています。なぜなら災害が起こる度に基準が見直されるからです。緩い方向に改正させることはありません。だから現行の基準に合致するということが少なくとも未来で起こる地震への安全性を保証するものでなありません。意匠事務所や施主はこの点を理解していないことが多いのです。だからこそ、今日の仕事に何十年後かの安全を盛り込むことが必要なのです。ぼくの仕事の意義はそこにしかないのです。と、あらためて思いました。


ぼくの将来の目標は自分で構造設計も行う建築家になることです。そのために今、文字通り修行しているわけです。現状ではそのような人をぼくは知りませんし、できるかもわかりませんが、すくなくとも僕の判断は間違ってはいないように思えます。やはり、デザイン面と安全面を一人の設計士が考えることが必要なのだと思えます。